~【まねき書き】の系譜~
【まねき書き】とは…
京都・南座において江戸時代から続く師走の伝統行事「※吉例顔見世興行」にて劇場正面に掲げられるヒノキ板の看板を“まねき看板(招き看板)”と言い、それらの看板を代々の書き手が一人で書き上げる仕事を“まねき書き”と呼ぶ。
まねき書きで使用する“まねきの字”は、歌舞伎文字(勘亭流)をより看板として訴求力のある力強いものにするため初代・竹田清耕氏が考案した文字である。このまねき看板を初代が1922年(大正11)に初めて手掛けられてから、令和六年の現在まで101年の歴史を紡いでいる。
※吉例顔見世興行
“歌舞伎の正月“とも言われ、古くは向こう一年出勤する役者の顔触れを知らせる重要な興行の一つ。南座では“東西合同大歌舞伎”と銘打ち、京都の師走を告げる風物詩としても親しまれている。
初代 竹田耕清(竹田猪八郎)
〈1922年より、松竹合名社(松竹株式社の前身)の依頼により、京都・南座のまねき看板の揮毫を手掛ける。京都の劇場専門の看板工房、タケマツ画房の創設者。20代より50年以上にわたり、まねき看板を揮毫〉
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二代 佐治永清(佐治克己)
〈竹田耕清氏が創設したタケマツ画房の職人であり、竹田耕清氏の弟子。初代亡き後、まねき書きを引き継ぐ。京都・錦市場ににある八百屋「錦 四寅」の看板は二代目の筆跡〉
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三代 川勝清歩(川勝 茂)
〈竹田耕清氏が創設したタケマツ画房の職人であり、竹田耕清氏の弟子。二代目亡き後、まねき書きを引き継ぐ。平成19年(2007年)タケマツ画房の閉鎖により、まねき書きの仕事場が京都・左京区の妙傳寺(日蓮宗)に移る。妙傳寺は片岡仁左衛門家(松嶋屋)の菩提寺である。2005年(平成17)「松竹創業百十周年記念 坂田藤十郎襲名披露記念」のまねき看板を奉納〉
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四代 井上玉清(井上 優)
〈竹田耕清氏が創設したタケマツ画房の職人であり、竹田耕清氏の弟子。三代目亡き後、2014年よりまねき書きを引き継ぐ。2015年(平成27)「松竹創業百二十周年記念 中村鴈治郎襲名披露記念」のまねき看板を奉納。まねき書きの仕事が丸百年を迎えた2022年をもって引退〉
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五代 川端清波(川端耕司)
〈三代・川勝清歩氏のまねきの字に憧れて、清歩氏の元へ飛び込む。2023年より先代・玉清氏より、まねき書きを引き継ぎ「清波」と名乗る〉